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検索結果:13件
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和田エリア
歴史の道資料館「かわちや」(国指定史跡)
この「かわちや」も文久元年(1861年)の大火で焼失し、再建された当時のものです。 2階正面が1階より前に出て桁で支える「出桁造」と格子戸が美しい、江戸末期の旅籠建築の様式を伝えています。母屋は木造2階建て、切妻、鉄板葺き、平入り、外壁は漆喰仕上げです。 昭和56年「歴史の道資料館」として修復工事がおこなわれ中山道宿場町の資料が展示されています。 また、和田宿~和田峠の道筋は中山道の面影が色濃く残っていることから、平成8年(1996年)文化庁選定の「歴史の道百選」に選ばれています。
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和田エリア
唐沢一里塚(国指定史跡)
一里塚とは、江戸時代に全国の諸街道に一里ごとに土を盛り、樹木を植え、目標とした塚のことです。 国道142号から古中山道に入って10分ほどの山中にあります。 右塚と佐塚があり、両塚共に現存しています。
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和田エリア
永代人馬施行所(国指定史跡)
中山道の和田宿から下諏訪宿までの道に立つ小屋です。 和田宿~下諏訪宿までの距離は、中山道の中でも長い長い道のりだったので、休憩所として「永代人馬施行所」が建てられました。
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長久保エリア
長久保宿
長久保宿は当初、現在の位置よりも西側の依田川沿いに設けられていましたが、依田川の大洪水によって流失したため寛永8年(1631)に高台の現在の地に移りました。 その後、「本陣・問屋」を中心に東西方向に「竪町(たてまち)」を形成し、宿場が賑わうにつれ南北方向に「横町(よこまち)」を形成したため、「竪町」と「横町」が交わる L字型の町並みになっています。 中山道の難所である和田峠・笠取峠を控え、北国街道の分岐点に位置していたことから、おおい時には43軒の旅籠があり、信濃の中山道26宿の中では「塩尻宿」に次ぐ数を誇る大規模な宿場でした。 宿場に関する歴史・資料を展示している「長久保宿歴史資料館一福処濱屋」など多くのスポットがあります。
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和田エリア
和田宿本陣(国指定史跡)
中山道六十九次の二十八番目の和田宿。背後には和田峠、隣の宿場である下諏訪宿までは長丁場(約22km)だったため多くの旅人が利用しました。 本陣(長井家)は文久元年(1861年)3月の大火(宿場の2/3、109戸が全焼)で全焼しましたが、11月に皇女和宮降嫁の宿泊地とされていたために急遽再建されました。 本陣建物は大名などの宿泊にあてられる「座敷棟」と、生活空間である「居室棟」に分かれていて、現在残っているのは板葺き石置き(1633個の石)屋根が特徴的な居室棟です。(座敷棟は上田市生田の龍顔寺に移築)昭和61年より5年をかけて解体復元修理がされました。
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和田エリア
和田宿
中山道の最高地点にして最大の難所といわれた「和田峠」を控えた和田宿。 標高差約800mの峠越えに備え、ここで多くの諸大名や旅人が英気を養いました。 旧道沿いには国指定史跡の「和田宿本陣 」「歴史の道資料館かわちや」「大黒屋」などが並び、往時の人々の息遣いを現代にも感じさせてくれます。 和田宿本陣ほか宿場の大半は、文久元年(1861)3月の大火で一度焼失しましたが、 同年の11月には皇女和宮の降嫁が控えていたため、幕府からの2千両(約2億円)もの援助と住民の努力により、見事に町並みを復興させ、この大行列を無事に迎えることができました。 現在本陣には、板葺き石置き(1633個の石)屋根が特徴的な居室棟が残っています。
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長久保エリア
長久保宿本陣石合家
中山道旧本陣中、最古の建築といわれています。 上段の間、二之間、三之間、入側が現存しています。
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高原エリア
星くそ館 黒耀石鉱山展示室
黒耀石体験ミュージアムから徒歩で約50分、史跡公園内にひっそりとたたずむ「星くそ館」。発掘調査によって明らかとなった、縄文時代の黒耀石採掘の様子を地層に直接投影するプロジェクションマッピングによって分かりやすく学ぶことができます。
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長久保エリア
仏岩(宝篋印塔)
大門街道から見上げる山の尾根に並ぶ巨岩。 この岩の上に「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」が置かれています。 標高は1,300m宝篋印塔が置かれる仏岩に登ると見晴らしは360度、思わず足がすくむ絶景です。 登山口から小さな沢を渡り雑木林の中を登っていきます。 クサリ場を過ぎると仏岩の足元に、岩に取り付けられている鉄梯子を登ると宝篋印塔の置かれる岩の上に。 本当に「よじ登る」という感じです。 「宝篋印塔」は応長元年(1311年)に武石氏が自ら治める地を見渡すことのできるこの岩の上に建立したとの説もありますが、はっきりしたことは不明です。 「どのような思いで、この場所においたのだろう」など、想像をめぐらしたくなります。
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和田エリア
和田宿資料館「大黒屋」(国指定史跡)
江戸後期の文政年間(1804~28年)には本陣1軒、脇本陣2軒、問屋2軒、木問屋1軒、旅籠屋・茶屋72軒、家数は180軒あまりの大きい宿場町だった和田宿。 旅籠屋から安政年間以降昭和の初めまで穀物商を営んでた「大黒屋」は、「かわちや」の斜め向かい、一段高くなったところに建つ問屋跡の隣りにあります。 やはり文久元年(1861年)に再建された建物で、間口6間、奥行き5間の「出桁造」の大きな建物です。
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高原エリア
黒耀石体験ミュージアム
霧ヶ峰高原東北端の位置する、国指定史跡・星糞峠(ほしくそとうげ)黒耀石原産地遺跡の麓にある体験型博物館。発掘調査の最新の調査成果を、実際の石器・アニメーション・模型などから分かりやすく知ることができ、矢じりや勾玉づくりなどを体験することもできます。
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高原エリア
星糞峠 黒曜石原産地遺跡(国指定史跡)
日本でも数少ない黒耀石の鉱山です。 星のカケラが降り積もったと言い伝えられてきた星糞峠には、キラキラ輝く黒耀石の割りくずが広がっています。
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長久保エリア
長久保宿歴史資料館一福処濱屋
長久保宿は中山道の宿場町、難所である笠取峠を控え善光寺へと続く北国街道、諏訪地方へ結ぶ大門道が分岐する交通の要衝であったことから40軒以上の旅籠がある大きな宿場町でした。江戸方の竪町と京方の横町がL字型に接続する宿場町としては珍しい配置になっています。 明治初期に旅籠として建てられた「濱屋」は山間部の旅籠建築に多く見られる「出桁造(街道に面した側の1階より2階を突き出させた建て方)」になっていますが、江戸時代の街や建築より軒が高く、また本来は延焼防止目的であった卯建(うだつ)も意匠としてのみの役割となっています。 旅籠は開業することなく、長い間住居として使われてきましたが、平成12年(2,000年)町に寄付され、現在の「長久保宿歴史資料館」として資料の展示と、内部も一部公開されています。